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1.果てしなくつづく野原に鍬をいれる 武蔵野の開拓
   水辺の開拓から台地の開拓へ
   開拓以前の武蔵野
2.川越藩主柳沢吉保の決断 三富新田の誕生
   柳沢吉保、三富新田開拓に着手
   開拓農民VS.過酷な自然
3.台地に刻まれた歴史のあしあと 三富に生きる人々
   さつまいもを作る村々
4.宇宙から見た写真に映る三富新田
   大切にしたい地球の財産
5.ぶらり散策 三富新田の歴史と知恵
   三富新田の地割―その知恵と工夫
   三富新田いまむかし
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1.果てしなくつづく野原に鍬をいれる 武蔵野の開拓

◆水辺の開拓から台地の開拓へ
  江戸時代に先行する戦国時代から、大規模な治水土木工事による新田開発が進められ、土の肥えた大河川流域に水田(新田稲作)地帯が形成されていきました。新田開発の進行は、同時に多くの新田村落を生みだし、戦国時代〜江戸時代を通じて、全国で数千から一万前後の村が成立しました。
  農業社会であった当時、幕府や藩などの領主たちは、新田開発を行って耕地を広げ、そこに農民を配置していきました。つまり、新たな耕地からの収穫物により、年貢の増収をはかろうとしたわけです。その後、水田の開発が限界にくると、水に恵まれず土のやせた台地部分にも開発の手が伸ばされ、畑(新田畑作)地帯が作られていきました。


江戸時代後半の武蔵野
(武野原之全図 文化15
年「川越松山巡覧図誌」
所収、国立公文書管)


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◆開拓以前の武蔵野
  「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。」と、国木田独歩がその代表作『武蔵野』(明治31年1月作)のなかで綴っているように、現在では雑木林が武蔵野のシンボルとなっています。
  しかし、冒頭の独歩の表現どおり、北を入間川・荒川、南を多摩川にはさまれた武蔵野地域ほ、かつて広大な原野が果てしなく広がり、周辺農村の入会地として利用されていました。農民たちは、その利用料として幕府や川越藩に金銭を納めていました。当時の武蔵野は、農民が生活を維持していくために必要な屋根葺の萱、馬の飼料、刈敷・堆肥などの肥料、燃料の供給源として、なくてはならないものだったのです。
  しかし、この武蔵野にも新田開発の手が入り、新しい村が成立して〈ると、しだいにせばめられていく入会地の利用をめぐって、自らの生活を守ろうとする農民どうしあるいは村どうしで対立が起こりました。北武蔵野にあたる三芳近辺もその例外ではなく、慶安二年(1649)以降数度の争いが発生し、川越藩が幕府に裁許を願い出ることもありました。


開発時上富村の
地割のようす


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2.川越藩主柳沢吉保の決断 三富新田の誕生

◆柳沢吉保、三富新田開拓に着手
  元禄七年(1694)七月、長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で、川越藩の領地であることが認められました、これにより川越藩主柳沢吉保は、新田開発を推進していくことになりました。
  吉保の命をうけた曽根権太夫をはじめとする家臣たちは、まず開発に従事する農民を集めました。その出身地は必ずしも明らかにはなりませんが、、上富村名主忠右衛門・中富村名主喜平次はともに亀久保村(現大井町)より移住し、下富村名主広右衛門は大袋新田(現川越市)より移住しているように、おもに近隣の村々から集まってきたようです。開発がはじまってから約2年後の元禄九年け(1696)五月に検地が行われ、上富143戸・中富48戸・下富50戸、合計241戸の新しい村ができあがりました。三富新田の誕生です。「富」のついた村の名前は、中国の孔子の教えに基づくもので、豊かな村になるようにという願いが込められています。


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◆開拓農民VS.過酷な自然
  武蔵野台地に位置する三富新田の開発は、開発農民と自然とのたたかいの連続でした。
赤土とのたたかい―― 栄養分が少なく水はけの悪い赤土(関東ローム層)に大雨が降ると、ぬかるみとなり人々を困らせました。
水とのたたかい―― 吉保は野火止用水の例をみならって、箱根ヶ崎の池から水をひこうと試みましたが、結局失敗に終りました。そこで、三富全域で11ケ所の深井戸(約22m)が掘られ、数軒が共同で利用しました。しかし、日照りの時には、井戸が枯れてしまい、数キロメートルはなれた柳瀬川まで歩いて水を汲みに行ったといわれています。
風とのたたかい―― 季節風が畑の乾いた赤土を舞いあげ、「赤い風」となって吹きまくりました。
  このような自然条件のもとでの厳しい生活ではありましたが、開発農民たちは、根気よく自分の土地を耕し続け、次第に耕地からの収穫量をあげていきました。


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3.台地に刻まれた歴史のあしあと 三富に生きる人々

◆さつまいもを作る村々
  元禄七年(1694)の開発当初からしばらくの間は、過酷な自然条件のもとで農民の農業経営も安定したものではなく、作物もアワ・ヒエなどの雑穀ぐらいしか収穫できなかったと思われます。
  しかし、寛延四年(1751)に、上総国志井津村(現千葉県市原市)から南永井村(現所沢市)にさつまいもの種芋がもたらされると、三富地域でもさかんに生産されるようになり、文化年間(1804−1817)には「富のいも」(三富新田でとれたさつまいもの意)のおいしさが評判となっていたことが、文献からも読み取れます。「畑方第一の作品」とまでいわれたさつまいもは、生産の拡大とともに江戸・川越・所沢の市場で売買され、「川越いも」というブランド名で、商品としての地位を不動のものとしたのです。
  明治時代になりますます盛んに生産されたさつまいもは、畑作地帯の農民に多くの利益をもたらしました。昭和十八年(1943)の「甘藷先生頌徳碑」(写真参照)建立の際には、さつまいも生産により恩恵を受けた入間・北足立・新座・高麗四郡の約400ケ村の農民から、寄付の申し出があったとされています。


名物「富のいも」
木ノ宮地蔵堂境内に
ある「甘藷先生頌徳
碑」は、さつまいも生
産の普及に貢献した
青木昆陽をたたえた
ものである


今もさかんに栽培
されるさつまいも


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4.宇宙から見た写真に映る三富新田

◆大切にしたい地球の財産
  宇宙を飛ぶ人工衛星からも、三富新田の開拓地割を見ることができます。水の得にくい荒涼とした武蔵野台地
に樹木を植え、屋敷林や雑木林を造り開拓した様子は、緑濃い区画として宇宙からも鮮明にとらえられます。
  現在、地球各地で砂漠化現象が起こっています。10年ほど前、この砂漠化をくい止めるため南米チリのサンペドロ村で、日本の国際協カ事業団(JlCA):が技術指導した手法が、三富新田を手本とし、耕地をはさむように屋敷林や林をつくるという技術でした。今では、この村の砂漠化はくい止められ、縁が復活しつつあるとのことです。
  三富新田開拓の知恵は、未来の地球環境を考えるためにもさまざまなことを教えてくれます。
(クリック)
宇宙から見た写真
に映る三富新田


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ぶらり散策 三富新田の歴史と知恵

◆三富新田の地割―その知恵と工夫
  三富の開拓は幅六間の道を縦横に開くことから始められ、この道の両側を間口40間(約72m)、奥行375問(約675m)の短冊状に区画し、一戸あたり五町歩(約5ha)ずつ配分しました。右の一軒分の屋敷割(上富の例)からもわかるように、道路に面した表側を屋敷地として、その次に耕地を、いちばん後方を雑木林としました。
  家のまわりを囲む屋敷林には、竹、けやき、杉、ひのき、樫などが植えられ、防風の役目を果たしました。また、竹はしっかりと根がはり地震に強いこと、農具や竹カゴなど竹細工の材料に利用できること、けやきは、高木で技が広がっているため夏は日陰を作り、冬には葉が落ちてこもれ日を家の内部に取り人れられること、大黒柱・敷居・桟などの家の材木に利用できること、杉・ひのきは家を造る際に利用できること、けやきとともに材木として売れること、樫は火に強く隣からの飛び火を防げること、飢饉のときには、樫の実(じんたんぼ)を食用とできること、というように樹木それぞれの持性を生かした植林がなされ、利用されました。
  農作業の場となる耕地は、一日一人分の労働範囲の目安となる五畝単位に区画されました。「一人前の男子とは、一日に五畝の畑を耕せるものをいう」という話があるように、五畝を基本にして、一年の耕作計画がたてられました。畑境に植えられたお茶の木は、畑の土が強風でとばされないよう防風の役割をするとともに、商品作物としても有効でした。
  雑木林にはナラ・エゴ・赤松などが育てられ、防風林として、また燃料となる薪、肥料(堆肥)となる落葉の供給源として、農民の生活になくてはならないものでした。いくつかの区画に分けられた雑木林は、約30年をサイクルとして雑木の伐採と若木の育成が農民自身の手によって行われました。
私たちはきれいに区画された三富新田の地割のなかに、新田開発を計画した川越藩、そして、この地で生活を営んできた農民たちの知恵と工夫のあとをうかがうことができます。
  現在三富地域は、埼玉県指定旧跡「三富開拓地割遺跡」として、その景観保存がはかられています。


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  ◆三富新田いまむかし
元禄七年(1694)七月に下された幕府の判断によって、左の絵図の「立野」(濃い青色で彩色されている部分)が川越藩の領地であることが認められました。「立野」の部分を時計のまわる方向に約90度回転させると、右に示した現在の地図の三富地域にほぼ重なります。つまり三富新田の開発とlは、従来の「立野」を耕地に変えていくことだったのです。


元禄七年(1694)秣場
争論裁許状裏絵図


現在の三富地域

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三芳町教育委員会発行「三富新田の開拓」より